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朝霧に潤う茶園

ようこそ

OTA太田緑茶園
のウェブサイトへ

いつも御世話になっているお客様と新しく訪問頂いた方にOTA太田緑茶園紹介をします

 私どもは佐賀県は西の端っこに位置する嬉野市嬉野町で当地の特産品である「うれしの茶」を生産販売」している家族経営の農家です列
 私/浩二とその女房とで茶園の開墾から茶苗の植え付け茶園管理 茶摘み 製茶作業 袋詰め 販売となんでもやっています 85歳の母と4人の子供も忙しいときには手伝ってくれます

これから少しずつ内容を充実させていきますから 時々訪ねてみて下さい勒


うれしの茶見聞 No.1

うれしの茶のはじまりは?

 紅令民さんがうれしの茶の始祖?


訊くところによると
 1440年頃、唐からの渡来人が現嬉野町の不動山地区の皿屋谷地区に居住して陶器を焼いていたそうですが、その人達が茶を栽培し自家用に使っていたとあります。
 その後1505年頃、明の紅令民という人が「釜炒り茶」の製法を広めたとあり、これが「うれしの茶」の始まりと言われています。
 その後、1650年、もと肥前白石郷の吉村新兵衛が不動山地区一帯に茶を栽培し製茶法にも改良を加えて近辺の農民にも生産を奨励指導したために、栽培面積、加工施設もふえて、今に至るうれしの茶の産地となりました。
 ちなみに
805年
 天台宗の開祖最澄、唐より茶の種子を持ち帰り近江の坂本の日吉茶園に植える
806年
 真言宗開祖空海、唐より茶の種子を持ち帰り肥前の長崎に植える


うれしの茶見聞 No.2
「勝海舟」さんも茶園を開墾?


 先日 杉山彦三郎伝(静岡県茶業会議所編)を読んだ  杉山彦三郎(安政4年〜昭和16年)はヤブキタ茶の生みの親である この本の中に意外な史実を見つけた
 あの幕末の賢人「勝海舟」(坂本龍馬の師でもあります)が茶園を開墾 茶の木を植え付け茶業に携わったと云う記述があって、茶業者の一人として興味深く思った
 少しだけ紹介してみると
 徳川慶喜公の大政奉還の後徳川家は静岡藩となり徳川家達公が藩主となられて静岡に移り住まれました これに多くの家臣たちが従って移り住んだのですが その数はおびただしく住む家はなく寺や庄屋の家などは一時その宿となってしまった そこでその家臣達をほってもおかれない徳川家ではありましたが かといって多くの旧家臣たちを扶養する力もないし 新政府に気使いもしなくてはいけない
 そこで それらを皆帰農させようと云う事になった 当時遠州(今の静岡県西部)には名産川根茶 駿河(今の静岡県東部)には安倍茶があったので「勝海舟」らの提案でこの名産の茶を帰農の家臣たちに現「牧の原台地」(静岡県の中央あたり)に作らせようとなったようです そして勝本人の茶園も安倍川上流の足久保地区に存在していたようです
 
徳川幕府の崩壊と明治維新が日本茶の大発展の始まりに関わっていたことは知っていましたが 勝海舟さんもこの茶業発展に関わっておられたとは「へー」ってなことで勉強になりました うれしの茶に直接関係はありませんが日本茶の発展の点からみたら知っとくべきかな


うれしの茶見聞No3
うれしの茶はグリグリ

 嬉野で生産されている緑茶はそのほとんどが「グリ茶」つまり「蒸製玉緑茶」です
 あとは「釜炒り茶」と「普通煎茶」が少しずつ生産されています
 終戦後しばらくまで 嬉野では「釜炒り茶」の生産がほとんどだったのですが 日本の高度経済成長期を迎え 緑茶の需要がどんどんと増えて 加工効率の低い「釜炒り茶」では 生産が追い付かなくなって来ました
 そこで登場したのが「蒸製玉緑茶」所謂「グリ茶」です 一番手間のかかっていた「殺青」(熱によって生葉の酸化酵素を不活性化し、また茶葉を柔らかくするための工程)を釜で炒る「釜炒り茶」から 蒸気の潜熱を使った「蒸製玉緑茶」へと技術革新をおこなっていったわけです
 この製法は需要がどんどん増えていく業界に瞬く間に取り入れられていきました
 「釜炒り茶」の産地として発展してきた嬉野ですから「釜炒り茶」をもっと生かした産地づくりをしたいという声もよく聞かれます
 日本の嗜好飲料の市場も多彩となってきて 新しい何かが求められている昨今ですので 「釜炒り茶」が新しいいでたちで また たくさんの人に愛される日が来るかもわかりません



店舗紹介
 OTA太田緑茶園は店舗はありません 茶園と茶工場と自宅の一部に茶冷蔵庫と袋詰めの作業場を持って 販売は電話やメールを使った通信直販を行っています
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